トップ > コラム >

東ティモールに続く道 ~東ティモールで起きた事~

公開: / 執筆:

とにかく、東ティモールに行くまでは準備でバタバタしていた。
出発する日が近付いて来ると、自分が行って良いのかなんて考え出した。
何故そんな事を考えたか
ここで簡単に東ティモールの歴史をお伝えします。

大航海時代、ティモール島はポルトガルが植民地支配をする、その後オランダも入り込み東西で東側をポルトガル、西側をオランダと取り合った。第二次大戦中は日本がティモール島を掌握、日本敗戦後、東側はポルトガルに返還され、西側のオランダ領はインドネシアとして独立する。1974年にポルトガルの政権が崩壊し、植民地政策を避難する世論が強まりポルトガルは東ティモールを手放す。
東ティモールは独立宣言を果たすが、その9日後にインドネシアの軍事進攻が始まる。その軍事進攻により70万人の人口のうち20万人が殺されてしまう。しかし、インドネシアはそんなに軍事力を持っていなかった。その軍事力をどうしたかと言うと、武器をアメリカから購入し、軍事演習も受けた。では、その資金は?

資金は日本からのODAでまかなった。人口一人当たり少なく見積もっても約3万円が使われたと言われる。その額4兆円と言われる。
その背景には、ティモール沖に見つかった海底油田、天然ガス、そして、1億2千万人のインドネシア市場。

日本、アメリカ、オーストラリア、インドネシア、結局は人の欲が小さな島の人々を殺戮していった。

1991年サンタクルス事件(東ティモール首都ディリ、サンタクルス墓地で独立派の青年のミサが行われた。それに対しインドネシア軍が発砲し、役200人の犠牲を出した事件)を撮影したジャーナリストの映像が世界に広まり国際的に無視できない状況になった。国連主導で独立の是非を問う国民投票が1999年にあり、投票率98パーセント、独立支持が78パーセントで独立が決定。国連の暫定政府を経て2002年5月20日に独立を果たしました。

そして、その独立の2日前の2002年5月18日に東ティモールに行きました。

行くまで、東ティモール問題は知ってはいたのですが、行く直前までただの知識でしかなかった。実際行くとなると、日本から私が行っておめでとうだなんて言えたもんではない。行って良いのだろうかと悩んだ。
しかし、乗りかけた船だ、行こうと心に決め皆で出かけた。

 

続く


コラムニストのプロフィール :

東ティモール独立に立ち会い写真を始める。 その後もフィリピン、ネパール等で撮影を続け、写真を通して、資源をめぐる紛争やグローバル化の中で起きる格差の問題など、社会の影を訴えつつ、奪われることのない人々の持つパワーや力あふれる姿、残り続ける文化や暮らしをフィルムに収めている。9年前に名古屋から信州に移住。3児の父。


執筆記事一覧はさんのページをご覧ください。