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【リラクオーレ通信】丸山珈琲20周年記念「丸山健太郎氏トークショー」リポート

更新: / 公開: 2011年10月29日 ( ※ 古い情報です ) / 文責:

スペシャリティ・コーヒーの丸山珈琲さんは、今年の4月をもって、20周年を迎えられました。おめでとうございます。

その特別記念イベントとして、去る7月9日(土)17:30~小諸店において、代表である丸山健太郎氏のトークショーが開催されました。
掲載が今頃になってしまい、情報発信サイトとしては非常にお恥ずかしいことではありますが、節目の年の貴重なお話でしたので、ご報告させていただきます。

司会は、丸山氏の著書『コーヒーの扉をひらこう』の編集を手がけた河野さんです。

スタートはいつ、どこでだったのですか?

オープンは、1991年4月1日でした。追分にある雑貨&喫茶の店「柊(ひいらぎ)」さんの喫茶スペースで営業させてもらったのが最初です。

毎日、来てくれる近所の女性が、丸山珈琲の最初のお客様でした。でも、その方が最初に言った言葉が「コーヒーは苦いから、あまり好きではないの」でした。この方に美味しいと飲んでいただけるものを作らなければ、プロではないなと、どこかで思いました。
また、当時は、佐久への抜け道だったこともあって、営業の人がよく使ってくれました。だから、その目的は、タバコを吸うか、新聞を読むか、ずる休みをするか(笑)だったので、コーヒーは二の次。その中で、いかにコーヒーを楽しんでもらえるかを考えることは良い勉強になりましたね。

コーヒーを仕事にしようと思ったきっかけは?

私は、高校を卒業した後、今で言うフリーターだったんです。たまたまイギリスとかインドとかに行ったりして、少々英語ができたので、それで食べていこうと思ったのですが、軽井沢では翻訳とか通訳の仕事はありませんでした。なかなか食べられなかったので、何か技術でも身に付けようかなと考えていたときに、本当に美味しいと思えるコーヒーに出会ったんです。

今の本店のある所は妻の実家なのですが、柊さんでオープンする前のシーズンに、そこで、とりあえず昼間は喫茶店、夜はペンションをやったんです。あるとき、有田焼の展示会の案内ハガキが届いて、見るだけのつもりで行ってみると、癖のありそうなオジサンがいて、なんだかんだ話にのせられて、なんと15万円ぐらい買ってしまいました。帰ったときの、妻のあきれた顔が今でも忘れられません(笑)。

そのオジサンが泊まる所を探していたので、自分のペンションに連れてきたんです。それで、サイフォンでコーヒーをいれて、買ったばかりの有田焼のカップで出したんですが、ちっとも飲んでくれない。どうしてなのか聞いてみると、急に真剣な顔になって、「丸山さん、本気でコーヒーを仕事にするなら、自家焙煎でなくてはだめですよ」と言われ、東京のお店を何件か紹介してくれました。コーヒー好きの方ならよく知っている、銀座のランプル、吉祥寺のモカ、南千住のバッハなどの有名店です。
早速、行ってみました。どこも本当に美味しくて、まさに目から鱗が落ちるでした。

でも、それら有名店のほかに1軒だけ、ぜんぜん有名ではないお店があったんです。実は、そこが例のオジサン一番のおすすめで、行ったら、そのオジサンが有田焼の展示会をしていました(笑)。図られたなと思いながらコーヒーを飲ませてもらったら、他店とはまた違い、独創的で美味しくてビックリしたんですね。それで、本気で焙煎をやる気になって、その場で弟子入りさせてもらいました。

スペシャルティ・コーヒーとの出会いは?

柊さんでの経営は順調だったんですが、長男が生まれたときに、この自家焙煎を、さらに極めようと、珈琲豆の販売に力を入れるつもりで、喫茶をやめました。

でも、その後、焙煎を突き詰めていったら、けっこう、自分の中で結果が出てしまったんです。というのは、焙煎は、究極の焙煎とでもいうレシピがあって、師匠とか先輩方もそれを持っていると思っていました。そして、私もそれを手に入れればいいのだと思っていたのですが、結果は、そんなものは存在しなくて、当たり前に普通に焙煎するのが一番いいのだということに気付いたんです。
それまでは、焙煎がすべて、職人の腕がすべてだと思っていたので、そうではない現実を知ったわけですから、ものすごい喪失感があって、体調も悪くなりました。

進むべき方向みたいなものが見えなくなって、しばらくした頃、ちょうどインターネットが普及し始めていたので、いろいろと検索してみました。少し英語もできたので、全世界のコーヒー事情を見てみると、知らないことがいろいろと進行していて、自分はすごく遅れていることに驚きました。
そして、スペシャリティ・コーヒーというものがあることを知ったんです。つまり、コーヒーは焙煎がすべてではなく、素材の珈琲豆が大事だということですよね。職人としては、自分で自分に負けを宣告するみたいなことですが、実際、当時は産地のことは何も知らなかったので、その世界を追求しなきゃいけないと思ったんです。

大きな決断をする時だったんですね

丸山珈琲では、個人名の農家のコーヒー豆を売っています。でも、普通は、安く買い叩かれて、集められて、良いものも悪いものも混ぜられて、一緒くたになって、ブラジル産とか、グァテマラ産として売られているんです。
ところが、中米のホンジュラスという国の山奥にある、電気も水道も来ていない、トイレもない村で、本当に素晴らしいコーヒーが作られています。それが、スペシャリティ・コーヒーです。

実は、私の理想は寿司屋でした。カウンターで、私が一人でコーヒーをたてて、お客様に供する。ところが、コーヒーの産地を見て、その環境や現実を知ったとき、自分の理想など、どうでもいいと思いました。スペシャリティ・コーヒーが日本に入って来ることによって日本のお客様が受ける恩恵・ラグジュワリーの価値と、自分の夢を実現させる自己満足の価値を比べたときに、前者のほうが、より多くの人を幸せにできると思ったんです。そして、大袈裟に言うと、当時の日本で、それができるのは私しかいないとも思いました。

まず、何をなさったんですか?

その頃、珈琲業界の変革時ということで、危機感をもった自家焙煎のコーヒー仲間が全国に10人ぐらいいたんです。その仲間で2001年、アメリカのスペシャリティ・コーヒー協会の年1回のコンフェレンスを見に行きました。その年は、フロリダのマイアミでの開催でしたが、航空チケットから入場券から、そうそう、ちょっとお楽しみのサンフランシスコジャイアンツの観戦チケット(笑)まで、全部、私が手配したんですよ。

同時に有名な会社の工場やお店も見ようということで、サンフランシスコのピーツという会社にも行きました。そこは、スターバックスを作った大学生3人が、もともと入り浸っていたコーヒー屋なんですが、ぜんぜんコンタクトがなかったので、ホームページの意見・要望欄を通じて見学を申し込んだんです。でも、なかなか返事が来ない。あきらめかけていた頃に、品質管理を担当しているジム・レイノズル氏から「歓迎する」旨の返信があり、思わずガッツポーズでした。彼は、技術的に会社を支えた方で、スターバックス社の初代の焙煎士ですから、みんな興奮しましたね。
ピーツの工場には、100kgの窯が3台並んでいて(丸山珈琲は35kg)、そこで若者が真剣に焙煎している。ものすごい量なのに、品質管理がキチッとしていて、できあがった豆のレベルが違うんです。非常に感銘を受けました。私はそれまで、大量生産=悪だと思っていたんですが、そんことはないことを見せつけられました。

2002年のカップオブエクセレンスの優勝豆を落札したそうですが……

ちょうどその頃、品評会で入賞した豆をオークションにかけるというシステムができたんです。普通のコーヒーの輸入の単位はコンテナ。1コンテナ=15t。15tは、当時の丸山珈琲が扱う量の15~20年分ぐらいです。ところが、そのオークション・システムができたことによって、少量でも買えるようになりました。なおかつ、このシステムで上位の豆を落札すると、バイヤーとして認められたんです。今でこそ、いろいろな農園に行っていますが、もし、あの当時、オークションで落札しないで、普通に農園の門をたたいていたら、まったく相手にされなかったかもしれませんね。

オークションは欧米の時間に合わせて、日本では夜の11:00~に始まって朝の3~4時までやってます。そのときは、ものすごいデッドヒートになって、最後に当時の世界最高価格で、落札しました。でも、非常に保守的な業界なので、とくに日本では売名行為だとたたかれました。大手ではない、名もない日本の小さな会社が落札したのですから。
でも、その翌年に、コーヒーの生産者の講演会に招かれて挨拶をすると、拍手が鳴り止みませんでした。ビックリしましたが、現地の皆さんは理解をしてくれているんだなと感激しましたね。

今後の豊富や夢などをお聞かせください

実は、コーヒーって、国際取引の中で、石油に次いで2番目に取り扱い金額が高い商品なんですね。そして、一面では、南北問題の象徴のような商品の一つです。極貧の人から超大金持ちまで関わっているから貧富の差が大きいんです。
その中で、スペシャリティ・コーヒーは、いまや無視できないところまできています。信頼・友情・約束、そういうことを守った人たちが勝つことができるのがこの業界です。そして、もしコーヒーでそれができたのであれば、ほかの同じような国際商品、カカオとか綿花などにも応用がきくのではないか。そういうことに、今、私は強い興味がありますね。

ほかの農作物や加工品と比べてみても、世界で最高のレベルのものを作っている人たちが、電気やトイレのない家で生活している、これを私は許せないんですよね。最高のものを作っている人は、最高のスポットライトを浴びてほしいんです。これまでのように託児所を作ったりといった社会的な貢献も含めて、今後も頑張りたいと思っています。

最後に、丸山珈琲は信州の珈琲屋です。私は、信州、とくに軽井沢で育ててもらい、かわいがってもらいました。
今回、ロゴを新しくしたんですが、そこに木が描かれています。よくコーヒーの木ですか?と聞かれるんですが、軽井沢の森をイメージしているんです。これからも、森の中の珈琲屋ということは忘れたくないですね。

トークショーを終えて





トークショーが終わると、そこに、奥様と次男、三男の2人のお子様が駆けつけてくれました。
さらに、丸山珈琲のスタッフから「そっくり人形」と、全スタッフ、関係者、本日の来場者からのメッセージボードがプレゼントされました。

ちょっと目をウルッとさせた丸山氏の挨拶です。
「ようやく20年、でも、まだまだ20年です。これまで、たくさんの人に助けてもらってきました。生産者の方々、関係者の方々、これから頑張っていきたいという若者たちに、その恩返しをして、丸山珈琲に関わる皆さん、丸山珈琲のコーヒーを一口でも飲んでいただいた皆さんが、少しでも幸せになっていただけるように努力を続けていきたいと思います」

20周年記念ブレンド

アニバーサリーブレンド2011
現時点で持っている豆の最高のブレンド。今の丸山珈琲らしさを出しています。
丸山珈琲のブレンド・クラシック1991
20年前に丸山珈琲を始めたときは、コーヒーの焙煎は非常に深煎りだでした。その当時の豆の写真を見ると真っ黒。当時は、当時としては良いものを使っていましたが、最近の丸山珈琲を飲んでいる方に当時の珈琲を飲んでもらうとビックリします。なので、このブレンドは、まったく過去と同じものではなくて、現在の丸山珈琲が、当時のブレンドを作ったら、こんな感じと思ってください。当時を知っている人は、もっとパンチがあったと思われるかもしれません。